今日の仕事は楽しみですか。





僕は何かに弾かれたかのように頭上を見上げる。



「今日の仕事は楽しみですか」と記載された無数の看板。



心の中で今までの事を反芻する「何も感じていなかった・・・?」



思考がその一点に収束すると今度は悪寒のような物が全身を駆け巡りその場でへたり込む。



そんな僕を行き交う人々は特に興味もなさそうに一瞥するとまた前を向きゆっくりと



しかし確実に歩を進めていく。どの人もみんな一様に覇気というか生気がない。



生きているのか死んでいるのか…



今度は頭上のスピーカーから「不穏因子発現」という聞き慣れない言葉が静かな構内に響く。


なんだろう?と考えを巡らせようとした刹那、重そうなしかも大勢の足音がこちらに近づいてくるのがわかった。



先頭にいる一人が「これより対象者を確保、隔離します」という言葉を理解する間もなく僕の意識は深い闇に落ちた…



「うっ」そんな呻き声とも苦悶とも言えないような何かが口から漏れ、僕の意識は急速に覚醒する。「眩しい・・・」そう口の中で転がすように一人ごちると、自分の今置かれた状況が普通ではない事を認識させる。 手足などは拘束されてはいないが一糸まとわぬ姿にされている。


「ここはどこなんだ!!」と誰に問いかけるという意味合いも持たないその怒声とも懇願とも言えない叫びは僕を包んでいる白い壁に吸収され再び無音の世界になる。 壁に耳を当ててみるが何も聞こえてこない。



「冷静になれ」と自分に言い聞かせ、一度深呼吸をし辺りを見回す。



部屋にあるものは自分が寝かされているベッドが一つ。ベッドと床の間に這いつくばればなんとか入れる程度のスペースを見つけることができた。 何かあるかもと一縷の希望を託し、スペースを確認しようと体を滑り込ませるがその希望は僕の夢想だったと思い知らされる。



あったのはこの部屋と変わらない真っ白い壁。その壁が重圧となり、この後どうなるのだろうという不安を煽ってくる。ため息をつき視線を下げると真っ白い壁の左隅に黒いシミの様でいてミミズがのたくった様な跡みたいなのが発見できた。白という色以外何も持たないこの部屋で見つけた初めての色だ。



なんだか嬉しくなりまじまじと見るがそれは見なければよかったと後悔する。赤く少し鉄が錆びた様な色で「こノまマだメはやク」僕はぞっとした「これを書いた人はどう・・・」と言いかけたその時、駅構内で聞いた声がまたもや頭上から降りかかる。



いやむしろさっきよりも無機質で硬質でそこからは何の感情も見出すことができない抑揚のない声。「458番覚醒これより移動を開始」という僕には不穏としか受け取れない言葉。それは僕に言い聞かせるというよりはどこか当たり前の様なもっと事務的な声だった。



その言葉が終わるや否や真っ白い壁の一部が音もなく開く、これから何が起こるのかという言い知れぬ恐怖で扉より一番遠くの壁まで後ずさった。 入ってきたのはバイザーをした小柄な人が一人と大柄な二人。共通はバイザーと真っ白い服を着ていること。 小柄な人が問いかけてくる「おまえは458番で間違いないか?」



目の前の大柄な人が僕に何をしてくるのか投げかけられる質問よりもそちらの方が気になった。まだ殴られたり罵声を浴びせられる方がすっきりする。しかしこの大柄な人は何もしてこない。じっとこちらを見下ろすだけ、しかも至近距離で・・・。



三度、小柄な人が「おまえは458番で間違いないか?」と問いかけてくる。



逡巡していると「反応なし」と一言大柄な人に告げる。 「わかりました」と誰に聞かせるわけでも無いようななんとも言えない返事をすると大柄な人は僕を荷物でも持つように抱え上げ、いつの間にか部屋に持ち運ばれていた椅子に僕を下ろす。



手足が椅子に拘束され勝手に喋らないようにだろう口には声を出させないように何かが入ってくる。吐き出そうにも吐き出せず「ん~!!!!!」という自分が発しているであろう狂声。小柄な方が「よし」と言うと部屋の外に歩き出すそれに続き僕が拘束されている椅子も勝手に動き出す。



連れていかれたのは先ほどとは比べ物にならないくらい小さな部屋。僕を乗せた椅子は部屋の中央に固定された。相変わらず手足の拘束は解かれない。大柄の奴は部屋から出て行ってしまった。 小柄の奴が「さて、今から何をされるか知りたいだろう? だけど知る必要も理由もない」



「これも社会秩序を保つためだ、それに君もこれで幸せになれる」それだけ僕に告げると頭に目元まで覆える帽子の様なヘルメットの様なものを被せる。 「やめろー!!」と叫ぼうとしたが徐々に思考がクリアになっていく、何か真っ白い物で上書きされて行くような塗られていく様な感覚・・・



「ああ…」



頭上には「今日の仕事は楽しみですか?」と看板がある。何故か以前は凄い気になっていたが今はそんな事はない。周りの人たちと同じ方向に進むだけだ。 前にいる人がやたら例の看板を気にしている。



頭上のスピーカーからはかつてどこかで聞いた「不穏因子発現」という聞き慣れない言葉が静かな構内に響く。 何故か少しばかりの恐怖を覚えつつも今連れていかれた人の事は脳に霧がかかったかの如く急速に興味を失う。



「これから仕事だ」と誰に言うわけでも無く小さく呟く。私は今幸福に満ちている。

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